プロフィール

はじめまして。

人が本当の自分を生きられるよう、勇気づける心理援助・行動支援者
ライフストーリーカウンセラー/キャリアコーチの川原広範です。

あなたは、このような悩みや願望をお持ちでしょうか。


<自分や人間関係の悩み・願望>

  • 毎日がむなしく、不安や生きづらさを感じている
  • どうせ、と自分や物事をネガティブに捉えてしまう自分を変えたい
  • 周りの反応を気にしすぎてしまい、いつまでもクヨクヨしてしまう
  • 自分の本音を出せず、自分を犠牲にした苦しい人間関係を何とかしたい

<仕事やキャリアについての悩み・願望>

  • 今の仕事にやりがいを感じられず、自分がやりたいことがわからない
  • 自分には何の取り柄もない自分に自信をもてない
  • 仕事が続かない、でも自分の強みを生かした仕事に就きたい
  • 過去を後悔しているが、このまま人生を諦めきれない


もしあなたが、このような悩みや願望をお持ちだとしましたら

過去から現在、そして未来に繋がっているあなたのライフストーリーに眠っている
あなただけの唯一無二の魅力や才能を引き出すとともに
あなたを苦しめている不自由な信念や思い込みを書き変え
過去の傷や後悔をあなたの望む未来への糧に変換することで
本来の自分を生かした心から満たされた人生をあなたが歩いていく

私は、カウンセリング&コーチングを活用して、このような心理支援・行動支援をしています。

そんな私のプロフィールはこちらになります。

【私のプロフィール】

私の一番古い記憶は、「どうしたらいいか分からず途方に暮れている」というものでした。

そんな私は、進路に関してもなかなか決められなかったのですが、自分の心のルーツを探すため、心理学の研究者になることを夢に描きました。

第三志望に入学し理想と現実のギャップに幻滅した私は、経済的事情で大学を除籍されると、第一志望合格を目指して再チャレンジします。

しかし私は、自分の実力も勉強が嫌いということも認められず、何度も受験失敗を繰り返します。

すっかり自分に自信を失った私は、ひきこもって自分を責めるばかりの毎日を過ごしました。

自分のキャリアに絶望した私は、思い切って自分の心の声に従い、わくわくすること、根拠のない自信でやれると思った未経験の営業の仕事にキャリアチェンジをします。

ありのままの自分を生かしつつ、なりたい自分を目指し振舞った結果、能力を最大限に発揮して多くの成果と自信を手に入れます。

流れに乗るかのように、たまたまある大学の社会人最終募集を目にした私は、再びわくわくという気持ち・やれるという自信を感じ、置き忘れたままの大学受験をやり直すことを決断します。

ここで私は、心から手に入れたい理想と現実の自分に正面から向き合った結果、Goalから逆算した学習により、ようやく念願の合格を手に入れます。

自分の人生を主体的に切り開いたという自信と、仕事と学業の両立というプライドをもって大学に入学しましたが、社会人としても学生としても中途半端な自分に劣等感と引け目を感じる、孤独でつらい時期を過ごしました。

そしてさまざまな自分の心理的な欠陥について、むさぶるようにあらゆる心理学の分野にその答えを求める一方で、自分の深めたい専門分野をなかなか絞り切れずに悩み苦しみました。

それでもある程度自分自身のルーツ、自分の中で納得のいく専門分野を見定め、無事大学を卒業し、大学院入試準備のために研究室に参加します。

ところが、あいまいなテーマ設定と経済的時間的制約により、研究をすることに私は行き詰まりを感じた私は、以前の同僚から力を貸してほしいと依頼をされると、「一旦」と自分に言い聞かせるようにして研究室に別れを告げます。

ここから、本格的に営業マンとしてのキャリアが開花していくようになり、私はトップ営業マンとしての地位と経済的豊かさをある程度手に入れます。

しかし中年期にさしかかると、忙しさに流されて「一旦」と保留していたはずの、研究者になるという夢を忘れて生きてきたことを後悔するようになります。

もはや取り返しのつかないところまできてしまったことを自覚した私は、研究者に代わる新たな生きがいを求めて、自己分析や、自己啓発書の濫読、セミナー参加に明け暮れるようになります。

そうした中で、夢を忘れ現実に流されてきた自分への後悔と、若い人には同じような想いをしてほしくないという切実な思いで、若者の夢を応援し勇気づけるため学習塾の起業を決断します。

しかしここで、教育業界未経験の自分に務まるのかという不安が募った私は、周りからの「1~2年教育業界を経験してからでいいのでは」というアドバイスに従いかけます。

ところが、ここで諦めてしまってはいけない、という心の声が聞こえてきた私は、信頼を置いている知り合い社長に電話相談します。

すると、これ以上逃げたくない、という自分を勇気づける心の声が聞こえてきた私は起業を決断し、自分の答えを導き出してくれたコーチングを掲げた個別指導塾を起業したのです。

しかし、準備不足と競合ひしめく場所での開業によって集客につまづいた私は、減少していく資金・生活費を補うため、塾を開けている時間以外は全てアルバイトに明け暮れるようになります。

使える時間は極めて限られていましたが、受験生全員第一志望合格という結果だけは残します。

しかし、起業当初のつまづきが最後まで尾を引き、多額の負債による経営困難により塾を閉鎖することになります。

多額の負債返済のため、起業の背中を押してくれた社長のもとで配送業の仕事にキャリアチェンジしますが、多額の負債返済に追いつくだけの収入に満たず、借入先から一括返済の裁判を起こされるなど、自己破産の危機に見舞われます。

同じ頃、親の危篤に遭遇していた私は、親孝行できない自分に絶望するものの、自分を幸せにすること、自分に忠実に生きることをここで決意します。

自分の想いや理想と周りの人や現実、そしてこれからの生き方を徹底的に見直した私は、原告と和解に応じ、またその他の借入先とも債務整理に落ち着くことで、自己破産の危機から脱します。

そして母親を看護する父親をサポートするため故郷に戻りますが、長い療養の末相次いで両親を亡くします。

いよいよ自分に忠実に生きること、現実の自分に根差しながら理想の自分に向かって自己変容・自己成長し続けることを決意した私は、仕事以外の時間を全て未来の自分を創るための自己投資に充てるようになります。

そうした中で、最も自己変容を実感できたコーチングを主体にして、過去の自分と同じような、自分の人生に迷い悩み苦しむ人の支援をすることをライフワークにすることを決断します。

そして学んだことを個人や企業対象に実践していきますが、未来志向のコーチングだけでは不十分な事例に遭遇します。

より深いレベル、特に過去に形成された信念へさかのぼるカウンセリング技術・知識の不足を痛感した私は、再びこれらについて学び直し始めるようになります。

同時に、コーチ・カウンセラーをライフワークとする上で必要な起業・経営意識・知識・技術等の不足も痛感した私は、これらをより広く深く学べるある講座に出会います。

そして講座の仲間とお互いに切磋琢磨し合い、自分自身の人生経験を再度整理し直す中で、ようやく自分の中のコーチ・カウンセラーとしての特色を悟っていきます。

こうして私は、人が自分のライフストーリーに眠っている「本当の自分」を生きられるよう、彼らを勇気づけることを使命・生きがいに、本格起業をスタートするに至ったのです。


私がこのようなプロフィールを書いたのは、悩みの解決・願望の達成という心理支援・行動支援というのは、とても繊細な内容を扱うことが多いからです。

つまり、カウンセラー・コーチとしての私への信頼や、これをお読みになるあなたとの相性が大切になってくると考えているからです。

そのため、少しでも私のライフストーリーの概略が伝わればと思い記させて頂きました。

もし、冒頭に掲げたような悩みや願望を持ちながらも、自分自身で解決が難しいと思われるようでしたら、一度ご相談に来てみて下さい。

そこで、今後続けるかどうかご判断頂いても結構です。


ただもう少し詳しく知りたいという方がいらっしゃいましたら、さらに詳しいプロフォールを下記に記させて頂いております。

少し長いプロフィールになっていますが、興味のある箇所だけでもお読み頂けると幸いです。

【さらに詳しいプロフィールはこちらです】
※かなり長いため、興味のある箇所だけお読み頂けると幸いです。    

<目次>

1. 「自分がない」人間としてスタートした幼年時代

2. 「自分がない」ことを証明した小学校時代

3. 歪んだ「やればできる」という信念を身に着けた中学時代

4.軸がブレブレ・自分迷子の高校時代

5. 大学生活の理想と現実とのギャップ

6.敷かれたレールからのドロップアウト、逃げるような人生へ

. 精神的どん底の20代:偏った自己対話と歪んだ自己認識

8.人の力を借りて、自分を知り、自分が変わる

9. 「わくわく」を大切に、根拠のない自信からのキャリアチェンジ

10.再び研究者の夢へ:心から行きたい場所を求めて自分を知る

11. 迷い悩み苦しんだ大学生活の現実:「どうしたらいいのか分からない」自分を繰り返す

12. アカデミック世界からの離脱

13. トップ営業マンとしてのキャリアで置き去りにした夢

14. 新たな生きがいとしての学習塾起業:逃げてきた自分との決別

15. 塾経営の理想と現実のギャップに苦しむ:そこで得られたものとは

16. 弱っていく母に直面して導き出した、幸せになる決意

17. 自己破産の危機を乗り越えて~最後のモラトリアムへ

18. 過去から現在そして未来へ~あなたも本当の自分を生きることができる

1.「自分がない人間」としてスタートした幼年時代

私は幼少期から体が小さく、発達が遅れ気味な子どもでした。

幼稚園に入園する際にも言葉が話せず、教育機関に両親が相談に行くほどだったようです。

そんな私にとっての最も古い記憶は、幼稚園でのある一コマでした。

記憶が定かではありませんが、先生から「好きなことしていいよ」と言われたのでしょうか。

「何をしたらいいか分からない」

「どうしたらいいのか分からない」

廊下のようなところで一人、途方にくれて佇んでいる自分の姿が、最も古い私の記憶なのでした。

その姿はまるで、今後の自分の人生を占うかのようなものでした。

自分の感情や欲求、意志が希薄だった私は、「自分がない」人間として、その後の人生のあらゆる局面で、迷い続ける人生を歩くことになるのです。

2.「自分がない」ことを証明した小学校時代

そんな私は体が小さいこともあって、周りからいじめられることが多い子どもでした。

自分の意志を強く主張することもなかったことも、いじめに拍車がかかった大きな要因でしょう。

そもそも私はあまり他人に関心がなく、まわりと関わるよりも自分の世界で遊ぶことが好きな子どもでした。

そんな自分に対してクラスメートからも、「つまらない奴」と罵倒されることもありました。

勉強に関しても、宿題をやってこない、机の中は整理整頓ができないと担任から叱責されるなど、自分に対して何の自信も持てないようなことがしばらく続きました。

ところがそんな私に対してある時、クラスメートから

「なんだ、できるじゃん」

「お前、すげえなあ」

そう言われたことをきっかけに、元々従順で素直に親や教師の言うことを聞くこともあってか、そこから急に学校の成績が伸び始めるのです。

そんなある時、

「面白い奴だな」

そうしたクラスメートからの一言をきっかけに、ユーモラスな言動で周りを楽しませることが増えていったのです。

こうして勉強に自信がもてるようになり、集団でも自分の居場所を発見したように感じた私は、明るく陽気な性格になっていったのです。

そうした意味では、人からの何気ない言葉の力の大きさを感じざるをえません。

一方でまた、これほど典型的に人からの言葉の影響を受ける姿は、まさに「自分がない」ことを証明しているかのようでした。

3.歪んだ「やればできる」という信念を身に着けた中学校時代

中学に入ると、“なんとなく”バスケットボール部に入り、毎日厳しい練習に明け暮れます。

家に帰ってからは、何時間もゲームやテレビにはまるような、よくある普通の中学生でした。

それでも成績が良かったこともあってか、親や教師から薦められて“なんとなく教師になろうかな、ぐらいに考えていました。

ところが、高校受験直前になって周りが勉強しだすのとは対照的に、相変わらず私はゲーム・テレビにうつつを抜かしているのです。

自然と成績は下がっていき、志望校合格に黄色信号がともるようになりますが、それでも本人は一向に勉強しようとしないのです。

担任の教師も業を煮やし、

「15の春を泣かせてはいけない」

そう自宅まで直談判しに来たこともあったのでした。

そんな状態になっても、本人はまるでどこ吹く風。

そう、どこか他人事なのです。

もっとも、少しは自分なりに危機感は感じていたようで、

「己に勝つ」

正月の抱負にそう記したこともありました。

ところが、ようやく受験勉強に本腰入れようとするものの、なかなか自室で集中できないのです。

気分転換にこたつに移動しても、今度は眠くなりそのまま寝落ちしてしまうことの繰り返し。

ついに最後までまともな受験生になれないまま、とうとう受験当日を迎えてしまいます。

それでも、当日のテストが思いの外できたこともあってか、無事合格することに成功します。

一方で、こうした成功体験によって私は歪んだ信念を温存し続けることになったのです。

「ただやらなかっただけ」
「やればできる」
「本気を出せば何とかなる」

こうした信念が、自分の人生を今後悪い方向に導いていくことになろうとは、当時の私は知るよしもなかったのです。

4.軸がブレブレ・自分迷子の高校時代

それまでの受験生活から解放され、激しい部活生活への変化もあってか、急激に肥満体系から瘦せ型体形に変化します。

するとこれに伴うかのように、私の性格も激変することになります。

それまで何も考えずのんびりした明るく陽気な性格から、内向的でプライドが高く神経質な性格へと変貌を遂げるのです。

すると自然に、人生や人の心について興味を強くもつようになり、当初は哲学、その後心理学を自分の進む分野として考えるようになります。

将来の職業としても、自分の好きな研究に没頭できる研究者を理想の職業として夢に描きます。

ところが、ここから右往左往することになります。

心理学を志望分野として見定めたはずなのに、考え方が好きだった先生の影響もあってか、生物学に強く惹かれ、迷い始めてしまうのです。

その結果なんと、浪人覚悟でセンター試験直前の1か月前に文系から理系に急遽変更するのです。

しかし、勉強を始めてみてすぐに理数科目では厳しいことを実感すると、再び文系の心理学に志望先を戻す、といったまるで軸がブレブレ状態だったのです。

それまで常に親や大人が敷いてくれたレールに従って生きてきた私にとって、人生で初めてまともに自分の進路を考えるのは、あまりにも難しい課題だったのでした。

そうした迷い悩む姿はまるで、幼年時代の「どうしたらいいのか分からず、途方に暮れている自分」の姿と瓜二つだったのです。

それでも最終的には、自分自身のこうした不透明な心や、様々な欠陥や課題についての自覚もあり、そのルーツを探るために心理学の研究者になることを志します。

志望先についても、他人や物事への興味に乏しかった自分が、唯一興味を抱けた心理学の研究だけに没頭できる大学を、唯一無二の理想的な自分の居場所と見定めます。

ところが……。

中学時代に身に着けた「本気を出せば何とかなる」といった歪んだ信念に邪魔されて、勉強できない自分を見つめようとしないのです。

自分の勉強法についても、「やればできる」という歪んだ信念・プライドが邪魔をし、モチベーションに頼った非効率的な学習姿勢に終始したのです。

こんな様子では、どこも受からなくて当然と見えましたが、当日の受験科目との相性もあってか、2浪して第三希望の志望先に滑り込むことに成功します。

3浪を半分意識していた私は、合格通知を目にすると

「あっ、受かったんだ……」

そこには、何の喜びも感慨もありませんでした。

そこにあったのは、単なる事実だけだったのです。

こうして、“とりあえず”大学に入ることを決めた私の行く末は、この時既に決まっていたのかもしれません。

5.大学生活の理想と現実とのギャップ

そんな調子でスタートした大学生活でしたが、それまでの浪人生活からの解放感もあり、大学に入った直後は友達付き合いやサークルに忙しく、“それなりに”充実した日々を送っていました。

ところが少し落ち着いてくると、徐々に違和感、虚しさが自分を襲い始めます。

  • 自分が本当に学びたかった専門分野とのわずかなズレ
  • 何の興味もやりがいも感じられない授業
  • ただ毎日サークル活動に明け暮れ、どうでもいい話に興じるだけの日々

まあ、よくある普通の大学生活の風景なのですが、自分にとってはそれがとても耐え難く苦痛なものなのでした。

自分が耽溺した書物の影響もあり、

お互いに切磋琢磨し合いながら研究に打ち込む―

大学生活に、そのような夢想的な理想郷を描いていたのでした。

ところが現実は違う。

もちろん自分自身としても、まだ専門に進む前の一年生の段階だからと言い聞かせるのですが、どうしても、自分の気持ちに嘘がつけないのです。

こうして理想と現実とのギャップに幻滅した私は、すぐさま自分が本当に行きたかった第一志望を再受験することを決めます。

そうはいっても合格する保証もないので、籍を残したままの「仮面受験」を選択します。

しかしここでもまた、ちっとも受験勉強に身が入らないのです。

また同じ頃、家庭の経済状況が急激に悪化するようになり、そこからの雑音も交じり始めると、ますます勉強に本腰を入れることが困難になります。

こうして結局、再受験は失敗に終わり、失意のもと再び大学に通い直すことになるのでした。


6.敷かれたレールからのドロップアウト、逃げるような人生へ

遅れを取り戻そうと気を持ちなおして勉強に励み始めると、そんな姿を見かねたのか、友人がレポートを手伝ってくれました。

また発表の準備のため没頭している自分に対して、教授も「才能があるよ」と励ましてくれたのでした。

そしてついには、経済的に困窮し始めていた自分に対して、高校の時の友人が学費の貸与を申し出てくれたのでした。

今から考えたら、なんと自分は恵まれ、周りから大切にされていたのでしょう。

しかしこの時の私はありがたさを感じつつも、それと同時にどうしても第一志望先への憧れが拭えなかったのです。

逆に、このまま今のところに通い続けるモチベーションを下げる要因はたくさんあったのでした。

  • 一部の友人を除き、サークルで自分の居場所を失ってしまった
  • 遅れてしまった学業を取り戻すのにしんどさを感じていた
  • 友人からの借金で当座はしのげても、4年間アルバイトに明け暮れなくてはいけなくなる
  • そもそも、やりたかった分野とはズレがある

こうして私は、苦しい想いをしてまで通い続けることに意義が感じられなかったのです。

現実の中で少しでもやれることをやっていく、という気概が欠けていたのです。

どうしても、このまま4年間の大学生活を送ることに「Yes」と言えなかったのです。

そしてとうとう、自分に期待をかけてくれていた教授のゼミでの発表当日、寝坊してしまい結果的に授業をボイコットしてしまう、という致命的な失態を冒してしまいます。

  • 発表への自信がなく、怖気づいていた?
  • やりがいの感じられない大学生活に嫌気がさしていた
  • もう何もかも嫌になり、今すぐそこから抜け出したかった?

あれこれ悩み苦しんでいるうちに、学費の振込期限は過ぎていました。

こうして私の大学生活は、中途半端な「除籍」という形で終わりを告げたのです。

行く先のない私は、今度こそ、と第一志望合格を胸に期します。

同時に、理想の第一志望の学費捻出のために働くことを決めます。

しかしこの時の私は知らなかったのです。

主体的に自分の意志で人生を選んでいたようでいて、その実、逃げるような人生を送り始めていたということを。

自分がこしらえてしまった、逃げ場のない「どろ沼」にはまりつつあったことを。

7.精神的どん底の20代:偏った自己対話と歪んだ自己認識

本来であればもはや退路が断たれた身として、一心不乱に勉強に励むところでしょう。

ところが実際は……。

慣れないフルタイムの仕事における疲労、そしてこれに対する休息・気晴らしと称してテレビに興じるなど、一向にまともな受験生になっていかないのです。

当然、受験はうまくいくはずがない。

そして後悔と反省をして、悲壮な決意で再度受験にチャレンジしては、失敗するの繰り返し。

働く社会人としても、勉強する受験生としても何もかも中途半端。

自分に抱いていた自信もすっかりなくなっていき、自分を責めることが増えてきました。

そして、レールから外れて社会を漂い続ける自分の寄る辺のなさ、どこにも所属していないという言いようのない不安が、日増しに強まっていくのでした。

最初は笑っていた友人も厳しく叱責するようになり、そして呆れるようになっていきました。

いつのまにかどちらともなく、それまでの人間関係がなくなっていました。

周りから期待されていたはずの自分が、いつのまにか誰からも見放され、相手にされなくなっていく。

世間に顔向けできなくなった私は、次第にあらゆる人間関係からフェイドアウトしていくようになっていくのです。

そうして安全な自分の檻の中にひきこもる、逃げるような人生が本格化していくのです。

ところが、そうした現実から目を背け逃げ続けてきた自分を直視させられる出来事が起こります。

身近な近親者の死でした。

当時の私にとって、過去の自分を知る人間と対峙するということは、現実の自分を直視することでもあったのです。

私は自分自身について絶望的な想いに打ちのめされます。

自分には何もない

そんな自分を見知られることへの恐怖、恥意識で、いたたまれない想いに打ちひしがれます。

また、どうしようもない人生を送ってきたことへの自己嫌悪、自責の念で胸が張り裂けそうになるのです。

一方で、過去の人間関係と再会することで、いかに自分が愛されてきたか、いかに周りに助けられてここまでやってこれたかについても気付かされた私は、自然と次のような感情も芽生えます。

  • やり直したい
  • 恩返ししたい

一方で、なにもできない今の自分について、無力感も強く襲ってきます。

  • 今の自分では何もできない
  • 何も与えることができない

そうした葛藤に苦しめられる中で、切なる願いが生じます。

与えられる自分になるまで待っていてほしい

そして強い意志が生じるのです。

  • 人のことを助けられる心理学者になる
  • 一刻も早くそんな自分になれるよう、何が何でも合格する

そんな悲壮な想い・決意で再度合格を目指し、学費をためるために再度仕事を始めます。

ところが……。

わずか数日で仕事を辞めてしまうのです。

現実のどうしようもない自分に直面させられた私は、すっかり自分に自信を失い、何事にも無力感を感じやすくなっていたのです。

もし自分の心のうちを早い段階で誰かに相談していれば、おそらく結果は違っていたのかもしれません。

しかし、実際は自分一人で抱え込んで悪循環から抜け出せなくなっていたのです。

ここから私は、本格的な引きこもり生活に入ります。

そして、いかに自分がどうしようもない人生を送ってきたか、救いようのない人間かについて自分を責め続け、書きなぐる毎日を送るようになります。

こうして私は、徹底的に自己否定し、自意識過剰で繊細・過敏・神経質になっていくのです。

この時の私に欠けていたのは、肯定的な自己認識と、人に助けを求めるということでした。

こうした否定的な自己認識に囚われて、肝心の志望校合格、勉強には意識がいかなかったのです。

やり直せない過去に囚われすぎ、やり直せるこれからの未来に意識がいかなかったのでした。

また、過去の間違った成功体験による「やればできる」「本気を出せばなんとかなる」という歪んだ信念・プライドが、ありのままの自分との対話を邪魔していたのかもしれません。

ありのままの自分を思い知らされることで、未来に希望を失うことを無意識に恐れていたのかもしれません。

いずれにせよ、偏った自己対話と歪んだ自己認識が、自分を変えることを阻害した大きな要因と言えるでしょう。

そして、自分一人で何もかも抱えてしまったことが、そこから抜け出すことを阻害した大きな要因と言えるでしょう。

こうして、再起を期して挑んだはずの私の受験は、今回も当然のごとく失敗に終わったのでした。

8.人の力を借りて、自分を知り、自分が変わる

自分に対して長い間寛容に、忍耐強く見守ってくれていた両親から、いよいよ自立への圧力が強まってきます。

そして実の弟が結婚することになると、もうこれ以上自分の夢を追うために先延ばしを許されてきた、経済的自立を拒否することは出来なくなっていました。

こうして私は、家族という外圧を通して人生初の一人暮らしを始めることになります。

私は派遣社員として、慣れ親しんだこれまでと同じ職種の仕事に就くのですが、そこで上司から大目玉をくらうことが頻発します。

手段として長年従事していたはずの仕事が、全く自分の適性に合っていなかったことを周りからのフィードバックによって、初めて私は気付くことになるのです。

勉強だけでなく、仕事においても全く客観的な自己認識ができていなかったのです。

自分のあまりのポンコツぶりに、上司からも半分匙を投げ掛けられるような状態でした。

それでも定期的な1on1によって、自分の至らない点についてフィードバックを受けながら、改善できる点を自ら考えさせるコーチング的指導を受けると……。

ポンコツ派遣社員が、ようやく少しはまともな仕事ができるようになっていったのです。

この劇的な変化に自分自身よりも、周りの方が驚いていました。

人ってこんなに変わるんだ

本人を目の前にして上司はそう公言していました。

一方、この時の私は次のようなことも悟ったのでした。

好きでも得意でもないことをやっても、人並にしかなれない

マイナスからの自分の成長を実感した上で、受験のため私はこの職場を後にします。

しかし、結果的に最後になった受験は見事失敗に終わり、ついに志望校合格の夢は叶わないまま終了したのでした。

9.わくわくを大切に、根拠のない自信からのキャリアチェンジ

受験をあきらめた私は、いよいよどういう仕事をして生きていくのか考える段階にきていました。

しかし、これまで自分の夢のためにキャリアを台無しにしてきた私にとって、果たしてできる仕事などあるでしょうか?

絶望的なキャリアを自覚していた私は、もうこれまでの過去の生き方にとらわれずに、自由に好きなように生きよう、という心持ちになっていたのでしょう。

これまでろくに対面の仕事をやったこともないのに、たまたま目にした販売の仕事を、ただ「わくわく」して面白そう、なぜか出来る気がする、といった根拠のない自信だけでやろうと思ったのです。

はたから見たら、全く無謀としか思えなかったでしょう。

それでもその時の私は、どうしてもやりたくてたまらず、絶対うまくいくはず、と直感に近い成功イメージを描いていたのです。

私は自分の心に忠実に従い、思い切ったキャリアチェンジをしました。

その結果は……。

入って2・3日後でしたでしょうか。

街頭で声掛けをしていた私に対して、職場の先輩が近づいてくるなりいきなり、

「やる気がないなら帰れ!!」

まじめにやっていたつもりの私は、その怒鳴り声に戸惑うしかありませんでした。

そう、これまで本とパソコンしか相手にしていなかった私の表情は、むっつりとして不機嫌そうに見えていたようで、そのことに人から叱責されるまで気付かなかったのです。

それからの私は一生懸命、笑顔になるよう努力をしましたが、どうしても笑えないのです。

おかしくもないのに笑うことなど出来なかったのです。

自分が笑えたのは、実際にお客様が申し込んでくれて嬉しくなった時でした。

そう、当時の私は、結果に依存して感情も表情も変わるような、非主体的な姿勢だったのです。

こんな調子ですから、最初は大して目立たず、まわりからは“冴えないおっさん”として、誰からも相手にされませんでした。

しかし、そのことが逆に良かったのでしょう。

周りから何の期待もされないし相手にされないのなら、いっそのこと自分の思うがままに振舞おう

「何者」でもないならいっそのこと、なりたい自分を目指して振舞ってみよう

そう考えふるまうようになると不思議なもので、いつしか仕事を楽しんでいる自分がいたのです。

その姿はまさしく、“水を得た魚のよう”だったと思います。

自然と私の表情は笑顔になっていました。

営業成績としてすぐに結果が出始めるようになり、いつしか周りから一目置かれる存在になっていたのでした。

そしてそのことはまた、合わないことをいつまでも続けることから自らを解放し、自分に合う場所を主体的に求めていった結果でもあったのでした。

10.再び研究者の夢へ:心から行きたい場所を求めて自分を知る

すると不思議なもので、人生はここから好展開しだします。

あるときたまたま、ある大学の社会人最終募集の情報を目にします。

これだ!!

私はすぐに受験することを決めました。

別に今の仕事に大きな不満があるわけではないのです。

ただ、

  • 興味のある分野をいくらでも多角的に学べる
  • 社会人の割合が高く、違和感なく溶け込めそう
  • 自分の学力や科目など、ここなら合格できるという自信

これらは、あまりにも自分を「わくわく」させるものでした。

そして同時に、夢であった志望校合格を手放したはずの自分にとって、これはあまりにも「チャンス」と思わせるものでした。

そう、「未完了の経験」として、一度忘れ手放したはずのものが、再度自分の目の前にやってきた瞬間なのでした。

そしてこのことは、「研究者になる」という夢が再度繋がったことも意味していたのです。

受験することを決断した私は、上司に一笑に付されながらも、受験のため1か月休む許可を取り受験生活に入ります。

ところが…….。

久しぶりの受験生活へのストレスに、高校以来のアトピーが再発し、まるで勉強に集中ができないのです。

同時にまた、私は自分に対する真実をようやく悟るのです。

自分は勉強が好きではない

好きでもない勉強に努力できるような人間ではない

心理学には興味があっても、5科目にはそれほど興味がない私にとって、好きでもない勉強をすることはあまりにもストレスだったのです。

心からやりたい、手に入れたいことと向き合って、ようやく自分の真実の姿を知ることができたのです。

とはいえ、多くの受験生も同じような悩みを抱えながらも、それを自分なりに納得させ、乗り越えていきます。

当時の私は、あまりにも目的と目の前の目標を繋ぎ合わせる技術が欠落していたのでした。

だから勉強しなかった、いやできなかったのでしょう。

しかしもちろん、好きな心理学を学ぶためには、この好きでもない勉強をしなければいけません。

私は志望校合格のためにようやく本気で知恵を絞ります。

行きたい大学のために好きでもない勉強をするため、ようやく自分なりのGoalから逆算した最短・最速・最低限の効率的な勉強法を見つけ出します。

そして受験前の4日間、私は人生で初めて朝から晩まで集中して勉強することができたのでした。

結果を見ようと、恐る恐る見つめたパソコン画面に映っていたのは……

そこには「合格」の文字。

思わず、咽び泣いている自分がいました。

人生で初めて自分の力で主体的に人生を切り開いた

そうした歓喜に打ち震えた瞬間でした。

こうして私はようやく、新たに目標にした本当に行きたかった志望校に合格することに成功したのです。

それは途方もない夢に近い理想の場所ではなく、現実的な中で最も理想に近い場所に行くことを意味していました。

もっとも人生とは不思議なもので、自分が心から入りたかった学部は、除籍された大学の別学部、というオチだったのです。

11.迷い悩み苦しんだ大学生活の現実:「どうしたらいいのか分からない」自分を繰り返す

期待と不安を抱いて始めた大学生活でしたが、年齢に反して人間的中身が貧しいことに大きな引け目・劣等感を感じるのでした。

もちろん一方では、働きながら大学に通い、仕事面でも学業面でも成績を出している、という自負・プライドは持っていました。

ただ一方で、社会人としても学生としても中途半端、という想いが終始ついてまわりました。

そのため、ここぞというところでどうしても臆病になってしまい、気後れしてしまうのでした。

こうして私は、人生で最も多感で傷つきやすく繊細な時期を、孤独で迷い悩み苦しむ大学生活を送っていたのです。

それはまるで、「遅れてきた青年期」を生きていた、と言っていいかもしれません。

しかしそれ以上に深刻だったのは、研究者になるために大学に入り直したはずなのに、しっかりとそのステップを積み重ねていなかったことでした。

社会人という時間的制約・学業との両立という難しさがあるとはいえ、授業と仕事に追われるばかりで、計画的・体系的に研究者として必要なアカデミックスキルを身に着けるための勉強をしていなかったのです。

代わりに自分がやっていたことと言えば、自分の欠陥に関係すると思われる分野についての書物を手当たり次第に濫読することでした。

心理学の世界を知れば知るほど、ことごとくあらゆる心理的欠陥を抱えている自分を再認識させられると同時に、その背景を知ることでどこか安心している自分がいたのでした。

「自分を知るために」心理学の世界に魅せられ、そしてある程度その答えらしきものを知る―

一方で、専門分野として突き詰めるのはこれ、と決めるにはどれも決定打に欠けていたのでした。

特に致命的だったのは、友人からの頼みを断り切れなかったがために、貴重な週1回の研究指導を受けられなかったことでした。

そのため、どうやって研究テーマを絞っていくのかというアドバイスを得られることもなく、ただ一人霧の中を歩いているような心地で、研究テーマを探し求めさまよっていたのでした。

その姿はまるで、幼年時代の「どうしたらいいか分からず途方に暮れている」自分の姿を繰り返しているかのようでした。

人は現在を生きているようでいて、その実過去の人生を生き直しているに過ぎない―

それを裏付けるかのような私の姿だったのです。

12.アカデミック世界からの離脱

こうして研究テーマについて悩んでいるうちに、卒論の締め切りが一か月前に迫ってきました。

最終的に私は、ポジティブ心理学のある分野を専門として深めることを決断します。

過去のネガティブなルーツをある程度知ることができた私としては、それは必然の流れだったのかもしれません。

卒論テーマについても、試行錯誤しながら自分なりに納得のいくものに決め、執筆に向けて怒涛のごとく走り出します。

深い内容・精度は大学院に進学してからでいいと、とにかく終わらせることだけに集中した結果、評価は散々だったものの、ぎりぎり終わらせることができました。

こうして無事卒業はできたものの、とうてい大学院入試どころではないどころか、ろくに研究指導を受けてこなかった不肖の学生である私を、指導教授は寛容に受け入れてくれたのでした。

ところが……。

  • 学部卒・院試前の立場として、奨学金が売れ取れず経済的に困っていたこと
  • 仕事を増やさざるをえず、勉強・研究に割ける時間がわずかになること
  • 研究テーマもまだ漠然と決めた段階であいまいであること

特に、生活のほとんどを仕事に追われることになったことで、研究への意識・モチベーションが希薄になり、研究室に参加する意義が見出しづらくなるのでした。

研究を続けていくことに行き詰まりを感じていたそんなある時、以前の職場の同僚から手を貸してほしいと、好条件の仕事のオファーが舞い込みます。

研究者になるために遠回りをしてやっと大学に入り直した自分にとって、一度はためらい断りかけました。

しかし、「完全歩合だから勉強する時間を確保できる」と説得されると、もはや働きながら大学に通い続け研究に没頭できるだけのモチベーションも、経済的余裕も、時間的余裕もなかった私は、このオファーを引き受けることにしたのです。

これまで寛容に温情をかけ続けてくれた恩師に事情を話し、私は研究室から去りました。

胸の中では、

一旦、アカデミックの世界から離れるだけ

そう言い聞かせて、私は研究室を後にしたのですが、この淡い期待は後で裏切られることになるのです。

13.トップ営業マンとしてのキャリアで置き去りにした夢

「とりあえず」で始めたはずの仕事は、予想以上に軌道に乗っていき、私はいよいよ「営業マン」として本格的なキャリアを築いていくことになります。

その後更なるオファーとして、会社立ち上げのキーパーソンとして打診され、これを受諾します。

すると会社の拡大・発展と並走するように、私自身の成績も収入もうなぎ上りに上がっていき、トップ営業マンとしての地位を確立、人生で初めて経済的に余裕がもてるようになります。

一方、私は徐々に結果に固執するようになり、確実に契約を取りトップ営業マンとしての地位を守るために、あらゆる手段を講じた営業手法に堕していくのです。

すると、それまでの「優良顧客対応受賞」から一転、“クレーム王”といった不名誉な称号を与えられるようになります。

そんな自分に自己嫌悪し、徐々に仕事にやりがいを失い、疲労感ばかりが募るようになっていきます。

また業界の再編・市場の飽和成熟化によって、営業の難易度が上がると同時に、収入等条件面も低下していったことも、こうしたことに拍車をかけたのでした。

こうして、元々はやりたくて楽しかったはずの営業という仕事が、もはや義務的な苦行でしかなくなっていたのです。

これまで無我夢中で走ってきた営業マン人生を振り返ることが多くなり、そして気付くのです。

忙しさにかまけて、研究者になるという夢を忘れて生きてきてしまったことを。

生活のためと自分に言い訳をして、ずっと自分が本当にやりたいことを後回しにしてきたことを。

ひょっとしたら、実現困難な現実を直視するのが怖かったのかもしれません。

いずれにせよ、主体性なく流されるように生きてきた自分の半生を後悔していたのでした。

一方で、同じ頃社長から幹部候補として打診されますが、すぐさまこう思うのでした。

ここは自分の居場所にはなりえない

ある程度の地位、収入があろうが、仲間と楽しい時間を過ごせようが、それは自分の人生の目的にはなりえないことだけははっきりしていたのでした。

それらは、どうしても研究者の道の代わりにはなりえなかったのです。

しかし、もはや後戻りできないところまで来てしまっている私は、研究者に代わる新たな生きがいを求めて、ここから自己啓発書の濫読、徹底的な内省・自己分析、セミナーへの参加に明け暮れるようになります。

そうして出した結論は、教育業界で起業するという選択でした。

14.新たな生きがいとしての学習塾起業:逃げてきた自分との決別

教育業界での起業を決断した理由は、以下のようなものでした。

  • 多くの人の援助・教育のおかげでここまで生きてこれたこと、その感謝と恩返しの気持ち
  • 好きではなかったものの勉強は比較的でき、人に教える自信があること
  • 大学受験で失敗し続けたが、その分志望校合格のための攻略法を掴んだこと
  • 以前従事した教育ボランティアで、子どもから頼られ、やりがいを感じたこと
  • そもそも、研究者という夢の前は、教師になりたいという気持ちもあったこと
  • 営業職なのに、勝手にパソコンレクチャーを顧客に始めて感謝を頂いていたこと
  • 自分自身の半生への後悔から、若い人に同じような想いをしてほしくない気持ちが強いこと

教員免許を持っていない自分にとって、再び一から教育免許を取る途方もない道のりを選ぶよりは、教員免許が不要な学習塾で教えることが現実的な選択肢でした。

特に教育業界でのキャリアがない私にとって、同様のキャリアでもIT教材を活用した起業で成功している事例を多数見聞し、後はどの教材会社を選ぶか、というだけでした。

ここでも少し迷い悩みますが、最終的に見学した際の子どもたちの笑顔があったかどうかが決め手となりました。

私は、子どもたちの笑顔を作ろう、彼らの夢を勇気づけようという想いで塾の起業を決心します。

残る開業場所など諸条件が整い次第、後は契約するだけ、というところまできました。

ところが……

良い条件の立地が見つからず悪戦苦闘していると、その他の面へも不安がもたげてくるのです。

  • 本当に教育キャリア0で始めて大丈夫なのか
  • 良い立地が見つからない中で無理して起業するよりも、タイミングを見た方がいいのではないか
  • 周りからのアドバイス通り、1~2年塾講師として経験を積んでからの方がいいのではないか
  • そもそも、費用面でももう少し余裕をもってから始めた方がいいのではないか

すっかり私は起業に対して怖気づき、後ろ向きな発想になっていたのでした。

とはいっても一方で、ここでそう簡単に割り切れない自分がいたのです。

どうしても、ここで諦めてしまってはいけない気がしたのです。

ここで先延ばししてしまったらまた同じことの繰り返し、きっと何もしないままで終わる―

そんな予感に近い直感が、見合わせという選択肢にまったをかけたのでした。

しかしそれでいて、どうしても勇んで起業に踏み込もうという気にもなれないのでした。

  • うまくいくイメージが明確に描けない
  • むしろ、経験不足・準備不足で不安しかない
  • 一旦、見合わせた方が賢明

再度見合わせる方向に自分を説得しようとしますが、どうしても心の中にモヤモヤが残るのです。

堂々巡りの自問自答から抜け出せなくなった私は、申込期限の最終日、もはや自分で答えを出せないならと、自分以外の力に身を委ねようという心境に至ります。

自力を手放し、他力に頼るしかない、と藁にもすがる想いで有名な占い師に運命を委ねようと決め、向かったのです。

ところが……。

その日に限って、臨時休業の張り紙があったのです。

なんたる運命!

自分で答えを出せということなのか

申し込み期限の残り時間が迫り、行くも退くも選べない私はたまらず、これまで度々相談に乗ってくれた、知り合い社長に電話をかけていました。

私は想いの丈を吐き出しました。

相手の社長は、ただ黙って聴いていてくれました。

そうこうしている中で、自分の中で心の声が聞こえてきたのです。

もうこれ以上、自分から逃げたくない

自分自身を勇気づけられないでいて、どうして子どもを勇気づけることができようか

こうした心の声が聞こえてきた私は、絞り出すように声を発していました。

俺、やるよ……

この時の私は気づきませんでした。

起業という人生における大きな決断の瞬間は、当時学び始めていた、自分の心の声、自分の答えを引き出すコーチングの瞬間であったことを。

私はすぐに決断し、申し込みました。

そしてタイトルに掲げました。

自分の答えを引き出す、コーチングによる自立型個別指導塾を。

15.塾経営の理想と現実のギャップに苦しむ:そこで得られたものとは

答えを教えるのではなく、自ら主体的に答えを引き出すための教育支援―

高い理想を掲げて個別指導塾を立ち上げたものの、立地など十分な条件・準備を整えずに、特に「塾銀座」と呼ばれる地域で起業した結果、出だしの集客で大きく躓いてしまうことになります。

立ち上げてから最初の入塾が決まるまで、1か月以上かかる厳しいスタートでした。

その後もなかなか入塾が決まらず、早くも経営に黄色信号が点灯するようになります。

みるみる資金が減少していく中で、生活費を賄うため一年も経たないうちに、早朝から塾が開く夕方までの時間と、休みの日をほぼ全部アルバイトに当てることになってしまいます。

それによって、経営改善にさける時間・リソースがすっかりなくなり、生徒数の伸びも微増に留まったまま推移していきました。

それでも、受験生全員第一志望合格という結果だけは残します。

その中には、直前で偏差値を10以上上げて合格を勝ち取った生徒さんもいました。

そうした実績もあってか、2年目は少しずつ生徒数が増えていきます。

ただそれと同時に、徐々に指導が十分に回らなくなってきました。

元々、IT教材を活用することで、一人塾長・ワンオペが実現できるということで多くの塾長仲間は経営を続けていたのですが、予想以上に手をかけなければいけない事実に直面します。

特に「塾銀座」と言われる地域で開業したこともあり、見守り主体で十分な生徒さんばかりではなかったのです。

つきっきりでの対応が必要な生徒さんが増えてくるに伴い、自立型のコーチング理念に基づく、IT教材活用による見守り指導というビジネスモデルが破綻していくのです。

次第に、ほとんど見守り指導で十分だった生徒さんからも不満が出始め、辞める生徒も出てくるようになってしまいます。

こうして、わずかながら増えてきていた生徒数の伸びは、完全に頭打ちになりました。

現状打開のため、発達上の困難を抱えた児童・生徒さん向けのオンラインコーチ業務も新たに始めました。

そこでは思いの外、多くの保護者さんからお子様の学習姿勢の変化について喜びの声を集めますが、大きく売上を補填するほどまでには至りません。

そうした中でもなんとか、2年目も受験生全員第一志望合格だけは実現します。

その中には、E判定から逆転合格を果たして本当に喜んでくれた生徒さんもいました。

またコーチング指導の中で、生徒さんの本当の想いや強みを引き出すことに成功し、自分が本当に行きたい志望先に急遽変更した生徒さんもいました。

こうして生徒さんの受験結果も満足度も得られたものの、出だしで出遅れた集客を取り戻すまでには至りませんでした。

その結果、多額の負債を抱えた状態で塾を閉鎖せざるを得ないことになりました。

こうして、人生初の起業は失敗に終わることになりましたが、不思議と後悔はなかったのです。

確かに、売上低迷を補うために休みもなく、朝から深夜まで駆けずり回る生活は、正直かなりしんどかったことは事実です。

しかし、それでも毎日が充実していました。

365日、塾のこと・生徒さんのことを徹底的に考え続けられたことは誇りですし、何よりトップ営業マンの時には得られなかった、生きがいを毎日感じていました。

逆に、もしあの時起業するという決断をしていなかったら、おそらく心の底から後悔していたに違いないでしょう。

なにより、これまでの自分の大きな殻を打ち破った経験として、一人の人間としての自信をもたらしてくれたのでした。

もっとも現実的には、私の目の前には多額の負債が残されました。

しかし不思議なもので、行く当てもなく困っていた私に、救いの手を差し伸べてくれた人物がいました。

先述した、学習塾立ち上げの背中を押す役割を担ってくれたあの社長です。

ちょうど配送業の部門を立ち上げようか考えていたとのことで、選択肢のない私はそのオファーに応じます。

もっともここでもまさか、塾開業の背中を押してくれる人物と閉業の引き受けをしてくれた人物が同一、という運命のいたずらに直面することなど、とても予想することなどできませんでしたが。

16.弱っていく母に直面して導き出した、幸せになる決意

こうして明日の生活に困っていた私にとって「渡りに船」だったはずの配送業の仕事は、未経験ということもあり、当初は失敗を何度か繰り返していました。

そんな私に対して、

やる気しか取り柄がないんだから

公衆の面前でそう見下した発言をする人がいる一方で、

気にしなくていいから

さりげなく横で支えてくれる人の存在で、私はどれだけ救われたことでしょう。

ただ収入面は、その日の荷物の個数に依存することもあり、なかなか当初期待していたほどの収入が得られませんでした。

現場によっては、早朝から深夜近くまで働いても希望の収入額に至らず、むしろ負債が増えていく一方でした。

ただ借金を返済するだけの毎日にむなしさとしんどさを感じていましたが、以前の営業の仕事に戻ることだけは考えていませんでした。

強みを発揮するだけではもはや物足りないことに気付いてしまった私は、強みを生かしつつ、人の幸せに貢献できる生きがいを感じられる仕事にしか就くつもりはなかったのです。

まずは目の前の負債を返済しながらも、教育職、あるいは生きがいを感じられる仕事に必ずカムバックする、といった強い意志をもってこの困難を乗り切ることができました。

一方この頃、大病をして以来すっかり弱っていく母に対して、少しでも元気なうちに恩返しがしたいという想いが強く募るようになっていました。

何かの折で連絡する際には必ず、旅行好きだった母にどこか行きたいところはないか、と母に誘いかけるのでした。

しかしそうした時の答えは決まって、

  • 別にいい
  • どこに行かなくてもいい
  • ただ穏やかに過ごせればそれでいい

ただそれだけでした。

ちょっと身体を動かすことにも難儀する母にとって、それらの言葉は本音だったのでしょう。

母は、息子に親孝行なんて望んでいないということを。

それよりも、早く息子に幸せになってほしい、ただそれだけなのだと。

しかしそんな母の気持ちを当時の私は、ちっとも分かっていなかったのです。

それよりも、母をただ喜ばせたい、そんな一方的な想いを半ば押し付けるように、母に問いかけるだけなのでした。

しかしある時、いよいよどうしても諦めきれなくなった私は、母に強く訴えかけます。

しかし、そこでも母の答えは相変わらず、いつもと一緒なのでした。

そこでようやく私は、母は本当に親孝行など自分に望んでいないのだということを悟ります。

それと同時に、これまで母に心配や迷惑ばかりかけてきた息子として、親孝行らしいことを何一つしてこなかった私にとって、そうしたことはもはや絶望でしかなかったのです。

体も弱り、好きなこと・できることが限られている母親を、依然と比べてすっかり感情や感性が平板になってしまった母親を、もう心の底から喜ばせる、幸せを感じさせることはもう生涯叶わないのだと。

親孝行したいのに親孝行できない現実に、私は嗚咽を漏らし絶望に打ちひしがれるしかなかったのです。

しかしながらそうした感情の先に私は、ようやく一つの境地に達します。

もう自分が幸せになることでしか、本当の意味での親孝行はできないのだと。

自分が人間として成長した姿を見せて安心させることが、最大の親孝行なのだと。

幸せになる決意、自分に忠実に生きていくことを決意した瞬間でした。

17.自己破産の危機を乗り越えて~最後のモラトリアムへ

自分に忠実に生きる決意を固めた一方で、現実生活ではとうとうある借入先から一括返済の略式裁判を起こされることになりました。

そう、自己破産するかどうかの瀬戸際に立たされたのです。

同時に、ここで自分にとっての「自分に忠実になること」を問われるのでした。

自己破産して、あらゆる呪縛から逃れられた方が、自由にやりたいように生きられる―

そうした想いが一瞬よぎりますが、でもどうしてもYesと言えないのです。

もうこれ以上かけがえのない関係を壊したくない―

そうした気持ちの方が強いのでした。

はっきり言えるのは、他人を不幸にしてまで自分が幸せになろうとすることが、私にとっての自分に忠実に生きることとはどうしても繋がらなかったのです。

こうして私は自己破産しないことを決め、そのためにやれることはやろうと知恵を絞り、多くの人にアドバイスや助けを求めました。

その結果、原告とは月々返済することで決着がつき、その他の借入先とも交渉が無事にいき、最悪の事態を乗り越えることができました。

負債返済に目途が立ち、教育業界へのカムバックを期して転職活動を始めるものの、多額の毎月の負債を返済できるだけの良い条件の仕事がなかなか見つかりません。

一方で、四苦八苦しながら配送業のさまざまな現場を経験したことで、逆に配送業で良い条件の仕事を、それも実家のある故郷に見つけることができました。

ちょうどこの直前、母が危篤で倒れたこともあり、母を看病する父を近くで支える必要性を感じていたこと、また父からの希望もあり、私は自分自身に向き合いました。

  • 今は、生きがいを感じられる仕事探しに躍起になる時ではない
  • 今自分がするべきなのは、母や父を支え、生活を立て直すこと
  • その上で、自分の望む未来に向かって近づく努力を一つ一つしていくこと

こうして私は、今の環境を変える決断をしました。

理想よりも、現実を選びました。

しかしこの時の自分は過去の自分とは違っていました。

途方もない夢を抱くこともなく、かと言ってただ生きていくための手段のために生きていくのでもない。

現実生活を生きながら、少しでも自分の状況をより良いものに変え、今からでも少しでもなりうる理想の自分に近づいていくこと。

そのために、限られた時間やお金の中で最大限できることを増やしていき、自分のキャリアの価値を少しでも高めていく努力をすること。

現実の自分に根差した上で、理想の自分に向かって自己変容し続けること

返済が落ち着くまでの数年間を「最後のモラトリアム」と見定め、仕事を世話してくれた社長に感謝を述べ、故郷に向かうのでした。

18.過去から現在そして未来へ~あなたも本当の自分を生きることができる

母を看病する父をサポートするため故郷に戻りますが、看病空しく母が他界すると、後を追うように父もすぐ他界するという事態に見舞われます。

あまりの相次ぐ両親の死に、最初はなかなか実感がわきませんでした。

徐々に精神的ショックが強くなっていきますが、母が倒れてからの時間が長かったこと、それ以来母の死を意識・覚悟できていたこと、そして母がいないことで苦しむ父をずっと見続けてきたこと、これらによって比較的素直に両親の死を受け入れることができました。

あるいは、親孝行できない自分に絶望しながらも、子どもとして自分が幸せになることを既に決意できていたことも大きかったかもしれません。

あるいは、長い受験生活とひきこもり生活によって、十分親に甘え頼ることができていたからなのかもしれません。

いずれにせよ「何をしたらいいのか分からず途方にくれている自分」から、ようやく「何をしたいか・何をするべきか悟り意志をもつ自分」に変化・成長できていたからなのかもしれません。

自分の人生の軸・目的・欠かせない価値観、やりたいこととやるべきこと、理想と現実のギャップとそれらを近づける意志・覚悟……これらがある程度自分の中で明確になってきたからこそ、相次ぐ両親の死に往左往することなく、それらに立ち向かえる自分になっていたのかもしれません。

もっとも、最後まで自分のことを本気で心配してくれる存在がいなくなったことも強く痛感、寂しく思うと同時に、とうとう両親に自分の勇姿を見せることが叶わなかったことが、強く悔やまれることではあります。

ただ逆に言えば、もう誰に気兼ねすることなく自分の人生を後悔なく生きよう、自分の望むように自分に忠実に生きようという気持ち・意志が強くなったことも確かです。

そして、今からでも少しでも理想の自分に近づくためにやれることはなんでもやろう、という気持ち・意志も強まりました。

こうして私は、セミナーや読書・クライアント体験等も経験しながら、実践的に心理学、特にコーチングを中心に、その知識・スキルを広げ深めることに没頭していきます。

元々「自分がない」ことの自覚から始まった私の人生は、心理学を追求し、自己分析を繰り返し、仕事経験からのフィードバック、そしてコーチングを受け、自らセルフコーチングを行うことで、ようやく「自分の中の答え」らしきものを出せるところまできます。

それは、

過去の自分と同じような、自分の人生に迷い悩み苦しむ人の一助となること―

そう、「何をしたらいいのか分からず途方にくれている人」が、本当の自分に気づき自分に忠実な人生を歩めるよう、気づきを与え勇気づけることをライフワークとして生きていこうと決意します。

こうして私は、自分のキャリアに迷っている人へのキャリア支援を中心に学びを深めていき、自分が本当に望んでいること、興味・関心、そして特性や強みを引き出す、キャリアカウンセリング・キャリアコーチングの知識・スキルを高めていくことに集中していきます。

当初は知り合いなど個人を対象にしながら、企業対象と少しずつ実践経験を積んでいきます。

そうした中で、どうしてもコーチングだけでは不十分、カウンセリングの知識・スキルが必要なことに遭遇、その不足を痛感します。

また、ライフワークとして生きていくための知識・技術・起業・経営スキルの不足を改善する必要も感じるようになりました。

そうした中で、ある講座と出会います。

自分に足りないものを謙虚に受け止めながら、多くの仲間と学び合い、高め合い、そしてようやく自分の色らしきものを確信していきます。

そうした中で、ようやく自分の人生経験を踏まえた「ライフストーリーカウンセラー/キャリアコーチ」としてやっていくことを決断します。

やりたいことが分からない、自分に取り柄なんてない、自分に自信がもてない……

そうした人たちが、自身の興味、強み、価値観等に気づき、自信をもってやりがいを感じられるキャリアを歩いていく―

私はそのための支援として、キャリアコーチングを提供しています。

一方で、彼らのライフストーリーを丁寧に辿っていくと、実は心理的な問題、特に幼児期の環境に起因する、不合理な信念などが隠されていることがあり、そのことが自分に自信をもてない大きな要因となっていることがあります。

そうした人たちが、過去の自分を癒し、過去の自分と決別し、ありのままの自分を受容して高い自己肯定感をもって人生を歩いていく―

私はそのための支援として、ライフストーリーカウンセリングを提供しています。

ただ、これらは必ずしも明確に切り分けられるとは限らないことから、実際の相談者とのセッションを通じて、相談者にとって最適な支援をその都度話し合いながら進めていきます。

いずれにせよ、人のライフストーリーには、本人も気付かない強みが、時に弱みの中にも見出すことができます。

特に、後悔など過去のネガティブな感情の底に、それらが隠れていることも少なくありません。

現在の私は、そうした相談者の中に隠れている可能性を、唯一無二のライフストーリーの中から掘り出すことを、自分の使命・生きがいとして生きています―


ここまでが、私の半生に及ぶライフストーリです。

ひょっとしたら、私の半生をなんと愚かで無駄の多い人生だったと思われるかもしれません。

それでも私は、どうしても自分を諦めることができませんでした。

ずっと理想の自分を求めて、自分に期待して、何度も人生をやり直してきました。

そうして少しずつ、理想の未来に向かって自分を変え続けてきました。

それもこれも、多くの人の支え・助けがなければ、何一つ実現できなかったことです。

これからの私の使命は、人が本当の自分を生きられるよう勇気づけることです。

私の不器用で拙かった人生経験が、少しはあなたのお役に立てるかもしれません。

あなたには、私のようにあまりにも多くの時間を犠牲にしてほしくないのです。

もしあなたが、自分の人生を少しでもより良いものにしたいと強く願うなら。

もしあなたが、自分らしく生きたい、本当の自分を生かしていきたいと強く願うなら。

少しの勇気と希望をもって、是非あなたを幸せにするための扉をノックしてみて下さい。

そして、あなただけのかけがえのないライフストーリーを私に教えて下さい。

そこにはきっと、あなたが幸せになるための可能性が隠されています。

見たくもない過去の傷の中にさえも、あなたが幸せになるための種がきっと眠っています。

たとえ今は自分のやりたいことや、自分に何の取り柄もないと感じていたとしても。

たとえ今の自分に自信がもてなかったとしても。

必ずあなたは本当の自分に気づくことができ、自分を生かした人生を送ることができる。

そんな自分に自信や誇り、生きがいを感じられる人生を、心から満たされた、幸せな人生を歩くことができる。

私はそう確信しています。

自分には何もない、そう思っていた私でも変わることができたのですから。

今度はあなたの番です。

あなただけの理想のライフストーリー

一緒に探していきましょう。

あなた自身の手で、あなたの理想の人生を描いていくために。


ライフストーリーカウンセラー/キャリアコーチ  川原 広範